横幹連合ニュースレター
No.030 Aug 2012

<<目次>> 

■巻頭メッセージ■
「横幹連合会員の相互理解への期待」
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横幹連合理事
日本大学 教授
青木 和夫

■活動紹介■
●第34回横幹技術フォーラム
■参加学会の横顔■
◆日本生体医工学会
■イベント紹介■
◆「第4回横幹連合総合シンポジウム」
●これまでのイベント開催記録

■ご意見・ご感想■
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横幹連合ニュースレター
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横幹連合ニュースレター

No.030 Aug 2012

◆活動紹介


【活動紹介】  第34回横幹技術フォーラム
    テーマ:「東日本大震災からの復興現場における支援活動 〜次世代に向けた日本の街づくりとして我々は何ができるのか〜」
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第34回横幹技術フォーラム

テーマ:「東日本大震災からの復興現場における支援活動 〜次世代に向けた日本の街づくりとして我々は何ができるのか〜」
日時:2012年 5月10日
会場:東京大学 本郷キャンパス
主催:横幹技術協議会、横幹連合
総合司会:谷川民生氏(産業技術総合研究所)
講演:大場光太郎氏(産業技術総合研究所)、工藤雅教氏(Civic Force)、若生裕俊氏(社団法人復興屋台村気仙沼横丁理事)、原田英世氏(カンバーランドジャパン)

プログラム詳細のページはこちら

【活動紹介】

  今回のフォーラムでは、宮城県気仙沼市を中心に、復興活動の具体的な取り組みや活動の障害、そして今後の街づくりへの課題について講演が行われた。シリーズとしては、第4回となる。
  冒頭で桑原横幹技術協議会会長は、自身の阪神淡路大震災の際の体験(失敗例)を率直に語った。仕事を再開するための資機材を被災地に持ち込んだところ、「その前に先ず、水、ポリバケツ、食べ物が欲しい」と指摘され、外部と災害現場ではニーズについての認識がずいぶん違うと感じた経験についてである。今回の大震災においても、復旧・復興活動の貴重な体験、その成功談や失敗例を、単に目的とするシステムとしてだけではなく「マネジメントのシステム」として良く知って頂きたいと、氏は今回の狙いを述べた。総合司会は、産業技術総合研究所の谷川民生氏が務めた。

 最初に「気仙沼〜絆〜プロジェクトからの震災復旧・復興における問題点の提起」について、産総研の大場光太郎氏が講演を行った。気仙沼〜絆〜プロジェクト は、気仙沼で被災された方々の「復興に向けての自助プロセス」を継続してサポートするための、企業連携体である。産総研の知能システム研究部門の研究会「スマートライフケアコンソーシアム」が中心になって、組織された。  東北の被災地では、平野部の都市が破壊され、仮設住宅は交通不便な高台にしか建設できなかった結果、それまでのコミュニティがばらばらになり、廃用症候群や孤独死の問題が発生して、高齢化にもいっそう拍車が掛かっていたという。この問題は、日本のどこの町でも20年後には起きると予想されることから、孤独死を予防し、被災地の生活支援ソリューション(解決案)を実証するために始められた。具体的には、産総研が中心となって、2012年1月に気仙沼市「五右衛門が原」の300戸の仮設住宅のそばに、3軒のトレーラーハウスを集会所として設置した。この場所で、非常時のエネルギー消費や排水処理といった、生活にとって不可欠なインフラパッケージに関する実証試験を行ったという。また、産総研のロボットを持ち込むイベントや、NPOとの共同作業なども行っているという。

  大場氏によれば、震災前の気仙沼は、次のような場所であったそうだ。① 漁港としては、マグロ、カツオ、サンマの水揚げ高が全国有数。フカヒレの水揚げ高は日本一であった。② 湾内の気仙沼大島は、「緑の真珠」と称えられる有名な観光地である。そして、気仙沼唐桑半島の「巨釜(おおがま)半造(はんぞう)」は、巨大な石柱のある熱変成岩地帯で景勝地として名高い。
  気仙沼では、震災後の半年で、漁港の再開に何とかこぎ着けた。地場産業の復興においては、それが先見の明だったとのことである。さらに、気仙沼大島や唐桑半島の観光地では、震災で観光客が激減したのだが、地元の方たちの率直な気持ちは「津波の記憶を忘れて欲しくない」ということであるそうだ。それで、全国の皆さんが「物見遊山で良いのか」といった気を遣わずに、被災地の見学にでも良いから観光に来てくれることが嬉しい。そしてお金を落としてくれることが、何よりも復興支援になると説明された。
  大場氏は仙台市の出身で、氏が震災の直後に実家までガソリンを持って駆けつけたときには、街は想像を絶するひどさで、20mくらいの高さのビルの上に車が乗っている姿に衝撃を受けたという。人口 3000人ほどの街が、洪水の被害で 200人位になった地域もあったそうだ。気仙沼市が、今回の震災では岩手県の陸前高田市と並んで最大級の被災地であったことが、氏の話から想起された。
  さて、3・11の大震災を時系列で考えてみると、復旧の時点と復興の時点では、中心となるアクター(活動主体)が異なることに注意が必要だろうと大場氏は言う。直後の復旧の段階では、自衛隊、警察、消防、そして、自治体とボランティア、NPOといった人たちが中心だった。しかし、その後の復興・街づくりの段階では、ビジネスとしての企業が中心となることから、自衛隊、消防、警察はいなくなり、ボランティアも支援センターが閉鎖されて、いなくなってしまう。この切り替わる期間の空白が、自治体だけでは埋められないという大きな問題があった。今回、産総研は、ボランタリーの企業をまとめる形で正にこの時期に入ったことから、今回のプロジェクトは上手く立ち上がることができたのだそうだ。災害後のこの期間をどう埋めるのかは、今後の大きな課題であると大場氏は述べた。
  また、仮設住宅のコミュニティを、どのように再生させるかについても、夫々の現場に入ってみなければ分からない。今回は、参加企業から提供されたトレーラーハウスを仮設住宅の横に置いて、地域の集会所にするところからこのプロジェクトを始めて効果が見られた。しかしそれも、最初に役所の窓口に「やりたい」と申し出た段階では(前例が無いので)たらいまわしになり、最終的には、市長に直訴する機会があって「やりましょう」と言って貰ったことから、やっと実施できたのだそうだ。
  仮設住宅で、廃用症候群や孤独死が発生した理由については、次のように考えているという。震災直後、住民が避難所での生活を余儀なくされていたときには、介護が必要な方でも何らかの社会参加が必要だった。そのため、住民の「活動レベル」は上がっていたと言える。それが、仮設住宅に移ったとたんに、外出の機会も減り、健康状態も悪くなったと感じる人が増えたそうだ。ところで、災害以前から産総研の中では、「幸せ」とは何かという議論を行っていたという。医療技術の向上や介助ロボットの支援があれば、過疎地であっても日常生活を維持することはできる。しかし、個人が社会参加をベースに人とのつながり(絆)を持ち続けられることが、精神的にも活動レベルでも「幸せ」なので、それが地域社会の維持には必要なのだ。それは、震災以前から産総研で議論されていたことだが、今回の大震災で確認できたという。

  今回中心となった産総研のコンソーシアムの参加企業は、アクセンテュア、伊藤忠商事、伊藤忠テクノソリューションズ、TEIJIN、NISSAN、HONDA(五十音順)などで、そこに、トレーラーハウスのカンバーランドジャパン、NPO河口湖自然楽校などが協力して、「気仙沼〜絆〜プロジェクト」「生きるチカラプロジェクト」などが立ち上がったのだという。このほか、産総研の別プロジェクトである「現場参加型医療・ライフケアコンソーシアム」の協力もあったそうだ。
  「気仙沼〜絆〜プロジェクト」では、トレーラーハウス(集会所)を中心に、エネルギー支援の実証実験を行っている。この集会場を維持・管理するために、太陽光パネル、ガスエンジンコージェネレーションユニット(注1)、TEIJINの汚水処理システムなどが組み合わされて、エネルギー支援パッケージとしては、自立して供給できるシステムが出来上がりかけているという。「五右衛門が原」の仮設住宅が、市街地からタクシーで20分ほど離れた場所にあることから、この電力を利用した HONDAの電気自動車が、お年寄りを街の病院まで送迎して喜ばれているそうだ(注2)。また、仮設の住民が自分から外出したくなるような機会を作るためのロボット公開イベントなども行ったという。なお、トレーラーの内一台は仮設診療所にしたかったのだが、様々な理由で保険所の許可が下りなかったそうだ。
(注1)「ガスエンジンコージェネレーションユニット」:ガスを燃料に、電気と温水をつくる熱電併給システム。
(注2)電気自動車が来るまでは、片道5千円、月に10万円ほどが、街の病院に通うための車代として掛かっていたという。

  ところで、「臨床医学」は、患者に接して治療のポイントを探る医学のあり方を表す言葉である。これに習って言えば「臨床工学」という考え方もあるはずで、例えば、介護ロボットのニーズなども、それを必要とする利用者に接することで臨床的に探ることができると大場氏は指摘する。さらに、今回の貴重な体験をデータとして分析して、次に予測されている首都圏や東海東南海などで生かすためにも、データの蓄積が不可欠なはずである。ところが災害の現場では、災害の記録は、被災者たちにとって「思い出したく無い」事のように扱われている。NPOなどがアンケートを取っていて貴重な資料が存在しているのにも係わらず、それらを将来のために蓄積することについては関心が薄いのだという。却って、海外から来たジャーナリストやボランティアが、その重要性に理解を示してくれたそうだ。
  それから、(本日の講演の主題から少し逸脱するが)復興の段階では、ファシリティマネジメント(施設・設備等の最適化管理手法)を理解している人が一人、現地に張り付いて調整するだけで、議論の質や復興計画が飛躍的に良くなることにも言及された。

  講演後の質疑応答で、会場からは、現場で生じた問題や復旧・復興の貴重な記録を「体系化」して可視化し、(冒頭の桑原会長の挨拶にあったように)「マネジメントのシステム」にして次に生かすことが本当に大切だと、大場氏の発言を支持する意見が述べられた。そのための起爆剤として、産総研に動いて欲しいと熱いエールが送られた。そして、講演者と質問者は、共に次のことを強調した。今回の大震災を貴重な経験として、横幹連合も含めて、社会全体が動く必要があるのではないかと。

  会場からのそのエールに応えるかのように、二番目の講演が行われた。続いての講演は、Civic Forceプログラム・コーディネーターの工藤雅教氏による「中間支援団体としての東北復興支援」である。ここでは、最初に、Civic Forceという団体の紹介が行われた。この団体は、大規模災害が国内で起きた時に、迅速で効果的な支援を行うための NPO/NGO・企業・政府・行政の連携組織であるという。災害時の支援に必要な「情報」「人」「資金」「モノ」を組織内で共有・活用することによって、円滑で効果的な支援を可能にしているそうだ。今回の大震災では、震災の翌日から被災地にヘリコプターを飛ばして、状況把握と現地ニーズの情報収集を行った。災害直後の復旧活動としては、2011年の3月から5月末までに、企業140社以上と連携して、食料88万食、衣料18万点のほか、防寒具、生活用品などの、計540品目、380トンの支援物資を一括調達し、一元配送したという。輸送には、ヘリコプターのほか、4トントラック10台を使い、3月23日より毎日、気仙沼市、南三陸町、石巻市、陸前高田市、大船渡市の集積基地や、小規模避難所に届けたそうだ。このような大規模な支援ができたのは、NPO、政府、企業、地方自治体が力を貸してくれたお陰であり感謝している、と氏は述べた。
  なかでも、民間レベルとしては抜きん出た、他地域にも参考になる成功事例が、一時完全に孤立してしまった気仙沼大島への大型カーフェリーの就航事業であった。現地ニーズとのマッチングの成功事例であるという。
  本来このような事業は、民間で仕切れる問題ではなかった。しかし、大島汽船のカーフェリーが津波で陸に打ち上げられ、大島がしばらく孤立してしまったときに、Civic Force代表の大西氏が個人的なつながりで、広島市長に「余っているフェリーがありませんか」と電話を掛けたところ、広島県江田島市からのカーフェリー無償貸与の話がトップダウンで決まったのだという。この結果、大変に立派な大型カーフェリーが現地に就航して、4月末から翌年2月まで、通勤・通学・通院の足として、延べ25万人車両5万台がこのフェリーを利用した。今回の活動の象徴的事業になったのだそうだ。

  ここで、工藤氏は次のことを強調した。「日本の災害現場に入った経験から言うと、現場にはプラットフォームの役割をする人たちや調整役が不在なのではないかと感じられます。国内の NPOに求められる役割は、正にそこにあるのではないでしょうか。」ちなみに、Civic Force代表の大西健丞氏らは、20代で中東の紛争地域に飛び込み、イラク、アフガニスタンの無政府状態の中で、命がけで一から人道支援活動を組み上げてきた経験を持つそうだ。
  そこで、Civic Forceは、自らを「中間支援団体」と位置づけて、数多くの現地 NPOや支援企業と協力して復旧・復興に尽力してきたと氏は述べた。Civic Forceのパートナー団体と、東日本大震災における支援企業については、ホームページに詳しく掲載されている。また、支援事業として行ったNPOパートナー協働事業に関しては、「最終報告書」がまとめられて個々の活動ごとに Web上に公開されている。例えば、NPO気仙沼復興協会との協働事業として、仮設住宅住民の孤立化の防止と、自立を支援する地域コミュニティづくりに取り組む活動などが行われている。講演では、現地で行った復興活動の事例の数々が、多く簡潔に紹介された。どれも興味深い事例であったので、上記のホームページをご参照いただきたい。
  また、震災の直後に、Civic Forceが被災地までヘリコプターを飛ばすことのできた理由は、袋井市、イオンとそれぞれ個別に、Civic Forceが防災協定の締結をしていたためであったという。平時から、静岡県袋井市を対象にヘリコプターを使った防災訓練を行っていたことから、訓練の際に(有償で)協力して貰っていた高橋ヘリコプターサービス(茨城県)が、震災の翌日に、気仙沼市のイオンショッピングセンターのヘリポートまで飛んで被災地の状況を報告してくれた。こうしたことから、いち早く、冒頭に述べたような 4トントラック10台による大規模な支援ができたのだという。
  講演後に司会者が、工藤氏に質問をした。「有事に、一気に動けるようにするためには、平時からどんな活動をされているのでしょう。」その答えは、「現在、東海東南海地震を想定した視察を行っており、現場で震災の際にどう動けばいいかのイメージ作りをしています。こんなところまで津波が来たのか、という古い地名などが残っているのにも係わらず、地元でハザードマップが周知されていない。そんな問題を平時から洗い出して、プランを策定し、行政と企業の連携、資金と物資の流れが融通し合えるような仕組みを考えています」とのことであった。

  3番目の講演は、一般社団法人復興屋台村気仙沼横丁代表理事、若生裕俊氏による「被災地の復興」(「復興屋台村の立ち上げの活動を通じて」)であった。数多くの苦難とそれを克服する努力の結果、復興屋台村が2011年11月に出来上がるまでが感動的に語られた。
  若生氏は、仙台市の被災をまぬがれたご自身の会社を拠点に、直ちに被災地への、水・食料・衣料の運送を始めたという。現在の屋台村の所在地、気仙沼市南町4丁目は、一帯が津波の被害で完全に何も無くなっていた場所である。支援物資を運びながら切実に感じたことは、この被災地で「食事の取れるところ」があれば良いということ。つまり、人や情報が集まるコミュニティの拠点が欲しいという強い思いであったそうだ。
  屋台村自体の成功例は、東北、北海道の各所に既にあった。仮設の屋台村であるからこそ、ここは調整地域だから撤去して下さいと後で言われても問題は少ない。結局、土地については、気仙沼市から 2年間の無償貸与を受けることができたという。地元では、工場をなくし、会社が無くなり、人々も先が見えないという状況だった。あきらめて他の土地に転出してゆく人も多かったので、やる気のある人が、地元で屋台村を、身体一つで直ぐにスタートできる、というようにしたかったそうだ。そこで、昨年の6月には早々と、説明会と出店者の募集を始めたという。公募で面接を始めてみると、面接者の一人ひとりに重い物語があった。計画した場所のすぐ近くで有名なイタリアンレストランを開いていたオーナー。その場所に今は、建物の影も形も無い。別の出店者は、たまたま内陸への配達をしていたので命拾いしたのだが、他の家族を全員津波で失ってしまった。このように、全員が被災についての語り部でもあった。そうした人たちが屋台村を基盤に、新しい生活を始めたいと願っていたのである。ところが、・・・。
  当初は公的資金をあてにしてはいなかったのだが、勧められて「中小企業基盤整備機構」の支援を受けたところ、出店者については「飲食店を経営していた経営者に限る」という制限が付けられたという。そしてまた、仮設店舗の建築確認申請が取れるまでにも、ずいぶん時間が掛かったのだそうだ。この間に、桑田佳祐さんが気仙沼でコンサートを開いてくれて、その会場で仮設の飲食店を出したことが関係者の結束を強めたという。やっと、9月に建築の許可が下りた。ところが、それからがまだ長い道のりだった。当初、30店舗でオープンしようとしていた予定地が、地盤沈下と高潮で一部に冠水した。別の場所を探すことも考えたが、予定地の中で冠水をしなかった場所だけの20店舗でオープンすることに決めたという。このように、いろいろなことがあったそうだ。
  グランドオープンは、昨年の11月。そのニュースは全国的に話題を呼び、お客様が詰め掛けて順調にスタートすることができたという。

  先ずは飲食店であることから、店舗のクオリティを高めることに注力したという。地元の名産を生かした特色のあるメニューが並んでいる。また、有名レストランのシェフに協力して貰い、新メニューの開発も試みているという。各店は 8席で、この広さが、お客様どうしも店主も全員で話ができるちょうど良い広さだという。
  全国から来たお客様は、「被災地は遠くて、自分は行っても何の役にも立たないと思っていた。ところが、屋台村でうまいものを食べてお金を遣うことが、支援につながると言われてやってきた。来て見たら、すさまじい体験をした現地の方たちが、生き生きとして、笑顔を取り戻して私たちを迎えてくれた。来たことで、逆に勇気を貰った」と、口々に言ってくれたそうだ。

  最後の講演は、トレーラーハウスの製造販売会社、カンバーランドジャパンの原田英世氏による「被災地へのトレーラーハウス導入支援と日本版 FEMAに関して」であった。
  トレーラーハウスというのは、車で牽引して道路上を運搬できる「家」で、電気、上水道、下水に接続できて定置して使用する。固定資産税も自動車税も掛からない。調整区域や農地であっても、行政の判断で設置が可能である。必要な期間だけレンタルして設置できることから、低コスト。中古も人気があり、高値で取引されていることから、不要になっても解体する必要が無い。住居タイプのトレーラーでは、住み心地も一般の住宅に比べて遜色がないという。東北の被災地では、60台ほどが使われたそうだ。
  全米には、トレーラーハウスのために、電気や上下水道の整備されている RVパーク(recreational vehicle park)が、約1万7千ヶ所あるという。連邦緊急事態管理庁 FEMAは、米国を襲ったハリケーンなどで被災した人たちの仮設住宅として、トレーラーハウスを使っているそうだ。もよりの RVパークから何台借りられるかを常に把握しているので、日本のように仮設住宅を突貫工事で建設しなくても、道路を運送してくるだけで、その日から寝泊りができる(注3)。
(注3) ハリケーン「カトリーナ」の場合には、8万5千戸以上のトレーラーハウスが FEMAから直ちに供給され、18ヶ月間ほぼ無償で提供された。(京都大学防災研究所、牧紀男氏の研究による。)

  このように、良い事尽くめのトレーラーハウスだが、日本の国土交通省の対応は冷ややかであるという。住宅局では「海外にあるこういう製品を日本も貿易黒字の中で受け入れて行こう」ということで、建設省住指発第170号通達を出して「建築物ではない」(それで固定資産税が免除されている)と規定している。それでは「車」かと言うと、そうではなく、一般の移動販売車とは異なるとして、トレーラーを販売所として使用する際には「移動すること」を認めていないのだそうだ。
  一方で、国土交通省の自動車局では、トレーラーを移送する際の「特殊な車両」としての規定が全くできていない。家の中が、がらんどうで軽量であり、道路を傷めることは少ない。しかも米国では、道路を普通に自走しているというのに、日本では電磁ブレーキが「補助ブレーキ」としか認められないことから、日本の法律上では「ブレーキ無し」とみなされている。ブレーキが使え無いので、道路上の運搬の場合には時速25キロ以下で、前後に警備用の車を配しての慎重な運送となるそうだ。
  カンバーランドジャパンは、こうした奇妙な法律上の問題について、1995年の阪神淡路大震災以降、延々と国交省と議論しているのだが、ほとんど進展が無いという。阪神淡路では、「トレーラーを現地まで運べば、家を失った被災者が、その日からトレーラーに泊りながらお店が開けるのです」と訴えても、全く認めてくれなかった。東日本大震災でも、「建築物」ではないことから、仮設住宅としての予算を全くつけて貰えなかったそうだ。
  「国交省との議論についてだったら、一日中でも話せますよ」と、原田氏は沈鬱な様子で語った。

  最後に、出口横幹連合会長が、閉会の挨拶をした。「災害は常に、社会のある種の矛盾を、そこに露呈します。災害からの復旧復興は、これまでは公助がメインで行われてきましたが、東日本大震災においては、規模が非常に大きかったこと、さらに原発の問題があったことから、自助、共助がメインになりました。今日のお話はその典型のように思われ、日本の災害が、社会のあり様を変えてゆくということをつくづく感じています」と述べた。「横幹連合は、文理全体を見通した上で、① 生活の問題 ② 企業、行政の BCP(事業継続計画)の問題。③ エネルギーの問題をまとめており、震災復興のための社会基盤の再構築に役立てたいと考えています。」出口会長はそう語って、本日の講演は終了した。

 (文責編集室)   



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