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横幹連合ニュースレター

<<目次>> No.033 June 2013

巻頭メッセージ

活動紹介

参加学会の横顔

 
〈歌う天使〉と機械人形 --シミュレーション技術の意味--
*
遠藤 薫 横幹連合副会長
学習院大学 教授
 
 第36回横幹技術フォーラム
 
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巻頭メッセージ

〈歌う天使〉と機械人形 --シミュレーション技術の意味--

  遠藤 薫 横幹連合副会長

学習院大学 教授

■古代遺跡の日時計--知ることと模倣すること

  ある日のTVで、インカ帝国のマチュピチュ遺跡を紹介していた。マチュピチュは、15世紀の都市遺跡の一つであるが、豪壮な巨石建造物が何に使われていたのかは、必ずしも明らかになっていない。
  もっとも、それは、世界中に分布する多くの古代遺跡に共通して言える事である。そして、これもまた充分に明らかではないのだが、それが太陽の動きを測る機能を備えていただろうという事も、同様に、古代遺跡に共通して指摘されているのである。  それは、決して不思議なことではない。人間社会にとって、天体の運行、特に、太陽の動きを知ることは死活問題であった。それぞれの社会の中心的機能は、「時の計測・管理」であったのだ。日本語の「聖(ひじり)」という言葉が「日知り」(時の計測)から来ているというのも、時間を「知ること」の重要性を伝えている。
  ところで、人間にとって「知ること」というのは、「模倣すること」と深く結びついている。生まれたての赤ん坊は、周囲の大人たちの振る舞いを模倣し、自分の模倣に対する大人たちからのフィードバックを参照しつつ、その社会のメンバーの一員としての振る舞いを学習していく、と社会心理学者のミードは論じている。
  社会批評家のベンヤミンも、次のように言っている:
自然はもろもろの類似をつくり出す。動物の擬態のことを考えて見さえすればいい。類似を生み出す最高の能力を持っているのは、しかし人間である。類似を見てとるという人間のもつ才能は、似たものになるように、また似た振る舞いをとるように強いた、かつては兄弟であった力のその痕跡にほかならない。ひょっとすると人間は、模倣の能力を決定的な誘因としない、いかなる高次の機能も所有していないのかもしれない 。( ベンヤミン「模倣の能力について」)

  だから、古い時代にあっては、権力者たちは「太陽の化身」を名乗り、社会自体も、季節に合わせて運営された。例えば、冬至は世界の終わりを意味し、冬至の後に「新年」として新しい世界が始まると、多くの社会で考えられた。
  時を測る神聖な装置である「時計」は、古い時代には、太陽の動きをそのまま模倣(写像)する日時計のことだった。古代遺跡の石造物が、まさにそれである。いわば、日時計とは、太陽の運行のアナログ・シミュレータであった。

■機械時計と自動人形 --コンピュータ科学の源流

  やがて、時計におけるシミュレーションの形式が変わる。
  西欧では、15世紀頃から、歯車による機械時計の技術が発達した。
  この技術開発を担ったのは、それ以前に「時の管理」を実際に担っていたカソリック教会の修道僧たちであったと言われる。しかし、その後に、機械時計が近代科学や資本主義を促進する大きな動因となり、プロテスタントによる宗教改革も進んでいったことは、歴史の皮肉とも言えるだろう。
  この潮流は、世界あるいは宇宙全体を「機械時計」のメタファーで見る認知的改革とも同期していた。それは、世界のあらゆるものは、「機械」として再現(シミュレート)可能であるという認識である。近代科学の祖であるコペルニクスやガリレオは、宇宙を「機械仕掛け」であると見なし、近代医学の祖であるハーヴェイは、人間の身体を「機械のようなもの」と考えてそのメカニズムを明らかにした。社会学の祖ともされるホッブスは、社会とは機械時計のようなものと論じて、社会設計の先駆け的な概念を提示した。
  「機械のようなもの」と言うのは、対象をその要素に分解し、その要素を再構成することによって対象の機能を再現できるものの事である。
  「機械論的哲学」と呼ばれるこのような思潮によって、近代科学は発展して来た。
  この延長線上で、人間の思考、あるいは生命そのものも、機械的に再現可能であることが期待された。その期待を具現したのが、自動人形(ロボット)であり、コンピュータ科学であり、また、生命科学であった。

■日本における時計と文化 -- シミュレーションの二つの形式

  横幹連合の機関誌『横幹』の創刊号に、「日本文化における人工物観−時計技術はなぜ人形浄瑠璃を生んだか」という原著論文を書かせて頂いた事がある。
  この論文で書いたのは、「機械時計」とは違った原理で動く、次のような社会の姿であった。16世紀に始まった南蛮交易の中で、日本にも早々に機械時計は伝えられ、間もなく日本国内にも優秀な時計師集団が形成された。にもかかわらず、日本ではその後、江戸時代を通じて、機械時計は大名や豪商などの一部の人びとに愛蔵されるだけで、一般に普及することがなかった。それは、西欧では、機械時計の発展とともに定時法が採用されたのに対して、日本ではあくまでも不定時法が維持されていたためである。規格化された要素時間を集積する機械時計は、季節や地域によって異なる自然の時間とは、馴染むことができなかったのだ。しかし、機械の時間は、広域にわたる労働や物流を制御する上では極めて有効だった事から、その後の西欧の資本主義や大量生産の発達に大きく貢献した。
  自然の時間にこだわった日本では、機械時計は一般化せず、資本主義や大量生産も発展する事はなかった。しかし機械時計の技術は、各地に残るからくり人形などに形を変えて継承されており、これが19世紀の開国とともに、改めて日本の時計産業を開花させたのである。
  さて、しかし、どちらも機械技術による人間の身体のシミュレーションでありながら、西欧の自動人形(オートマトン)と日本のからくり人形には大きな違いがある。自動人形は、人間の身体のすべてを再現し、自律的に思考し行動するロボットを目指す。これに対してからくり人形は、人間が「操る」ことを前提として、やがて、「人形浄瑠璃」を生む事になった。自動人形は、人間が新たな神となって新たな人間(ロボット)を創造しようとする、いわば自然への挑戦だと言える。これに対してからくり人形は、人間と機械とが融合して、新たな自然(美)を創造しようとするものだったのである。
  どちらも同じように、人間にとって根源的な「模倣(シミュレーション)」の発現なのではあるが、前者は技術への、後者は芸術への志向性を潜在させていた、と言えるかも知れない。

■〈初音ミク〉というバーチャル・アイドル

  最近、〈初音ミク〉という「歌手」が人気を集めている。「歌手」といっても、その実体は、DTM(Desktop Music)ソフトである。使用されている音声合成技術の名称から、「ボーカロイド」とも呼ばれている。PCから情報を「打ち込む」ことによって、誰でもが容易に、音楽を作曲、演奏、歌唱することができ、その「歌唱をする」のが、仮想的な歌手である〈初音ミク〉という設定になっているのだ。
  〈初音ミク〉は、ツインテールの女の子というイラストによって分かり易くキャラクター化されていることもあり、生身のアイドルのように語られている。「初音ミク」ソフトで創られた楽曲には、しばしば、「ミクさんが歌ってくれた」などの枕詞(?)がつき、関連ニュースで、「天使のミクさんが・・」というように主体化されていたりもする。
  〈初音ミク〉は、さらにホログラムで実体化され、ライブコンサートまでも開催している。日本国内はもとより、ロサンゼルスNOKIAシアターでも、初音ミクの海外初ライブ『MIKUNOPOLIS in Los Angeles -- はじめまして 初音ミクです』が、2011年7月2日に開催された。国籍もさまざまな数千の観客が、ホログラムの歌姫に大歓声をあげたのだった。アジア諸国でも、彼女のライブコンサートは開催されている。
  〈初音ミク〉は、コンピュータ科学の先端に位置するものの、ロボットというより、浄瑠璃人形の末裔という言い方がふさわしい。彼女は自律的に存在しているわけではなく、彼女に「歌ってもらう」創作者たちによる表現なのだ。
  だが、それこそが重要なのだ、と、彼女の幻像に熱狂する人びとなら言うだろう。
  普通の人びとの、日々の想いを託し、共感することのできる媒介者(メディア)としての〈初音ミク〉は、まさに天使のシミュレーションなのである。

■第一の技術と第二の技術

  先にも挙げたベンヤミンの著作に、『複製技術時代の芸術作品』(1936)というあまりにも有名な小論がある。
  このなかでベンヤミンは、技術には、第一の技術と第二の技術とがある、と論じている。
  第一の技術は、「一回こっきり、の世界」で、「一度したら取り返しが付かない失敗」のリスクをはらんでいる。一方、第二の技術は、「一度は、数のうちに入らない」ということわざが当てはまる。つまり、いろいろなやり方を倦む(あぐむ)ことなく試して行く実験なのであり、その「根源は、遊戯(シュピール)にある」と彼は言う。彼は、また、「第一の技術は、実際、自然の支配を目指していた。第二の技術は、むしろ、自然と人との共演(共同遊戯)を目指すところがはるかに多い」とも述べている。
  このベンヤミンの主張を、本稿で述べてきたことに引き寄せて考えれば、これまでの技術(第一の技術)は、人間の生活を豊かにするために、最大化・最適化を目標として突き進んできたと考えられる。それは、自然を支配して、人間に奉仕するよう撓め(たわめ)ようとする技術であった。しかし、ときにそれは、自然からの逆襲を受け、取り返しのつかない事態を引き起こした。
  これに対して、「実験/遊戯」を根幹とする「第二の技術」は、予測される状況をあらかじめ体験することが出来たり、自分の思いや他者の思いを繋ぐ(つなぐ)ことにより、第一の技術の暴走を防ぎ、人間優先の社会を創り出す媒介となる事ができる。
  第二の技術は、人間と技術との共同によって、文化や芸術を生みだす技術(先に述べた、第二のシミュレーション技術)と言えるかもしれない。
  しかし、根源に立ち返って考えてみれば、古代ギリシアにおいては、〈芸術〉とは「テクネー」すなわち〈技術〉と同義であって、しかも、それは、ポイエーシス(創作=生−産)なのであった。プラトンは、その事を次のように述べている。
およそある物が無から有へ推移するとき、その原因となるものは、皆つまり一種の創作活動です。ですから、あらゆる芸術(テクネー:遠藤注記)の範囲に属する作品は創作で、またそういうものの制作に従事する者は、すべて創作家(ポイエータイ)なのです。

  「技術」と「社会(芸術)」は、歴史の中で、いつのまにか、あたかも別のことのように扱われるようになってしまっていた。しかし、それを再び、一つのものとして統合する道を探る事。それこそが正に、「横断型基幹科学技術研究」の目指すべき方向なのではないだろうか。
  ふつうの人びとによる共感の協働創造をサポートする、〈歌う天使〉の初音ミク。もしかすると、彼女は、人と機械の融合した新しい世界のための、新しい天使といえるかもしれない。

(注)  「初音ミク」は、クリプトン・フューチャー・メディア社が販売するDTMボーカル音源ソフト(サンプリング音声による歌唱が可能)、および、その声で歌唱するCGキャラクターの名前です。2007年の発売以来、ニコニコ動画を中心にそのブームが広がり、1000本売れればヒットといわれるDTM業界で数万本を売り上げました。  音源ソフトとCGキャラクターの著作権は、クリプトン社に帰属しますが、音源ソフトの購入者が自作の曲を彼女に歌って貰ってニコニコ動画に投稿するといったことについて、同社からの許諾が不要という扱いになっています。ただし、非営利での使用に限られます。
(注釈文責編集室)
【関連文献】
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」久保哲司訳(『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫、p.598-9)
プラトン『饗宴』久保勉訳(岩波文庫、p.113)
遠藤薫「日本文化における人工物観−時計技術はなぜ人形浄瑠璃を生んだか」(『横幹』 Vol.01, No.1, 2007、p. 43-50。遠藤薫『日本近世における聖なる熱狂と社会変動--社会変動をどう捉えるか4』勁草書房、2010所収)
遠藤薫「近世・近代〈日本〉における〈時計〉技術の需要と変容 : グローバリゼーションの二重らせん」(学習院大学法学会雑誌 44(1), 313-358, 2008 )
遠藤薫「間メディア社会の多面的様相:コミュニケーションの未来予想図」(『第4回横幹連合総合シンポジウム』論文集、2012、p.1-4)
遠藤薫『廃墟で歌う天使―ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」を読み直す』(現代書館、2013)

 

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